シェアハウス「王子アリス」
なつみもさくらも全身汗だくだったが、それをハンカチで拭く余裕はなかった。
日傘をさすのもじゃまになり自分の日傘をそれぞれ小わきに抱え、日陰をひろって歩いた。
もう30分ちかく歩いているのに
すぐ見つかるとおもっていたシェアハウスは、見つからなかった。
王子あたりにシェアハウスはそんなにたくさんなさそうだし、しかもあまり見かけない洋風の建物なのだ。
すぐわかるはずだった。
八幡不動産の老店主は「15分くらいで着く」といった。
それなのに、30分歩いても、それらしい建物はみつからなかった。
スマホで住所をいれても、なぜかひどくわかりにくく、たどり着けなかった。
「王子シェアハウス」「王子 シェアハウス」と検索しても、まったく関係ない情報がゾロゾロ出てくるだけだった。
「区役所わきの道を道なりにけば、出るから」と、不動産屋はいともかんたんに言ったのだ。
しかし、北区の区役所は、庁舎がいくつかに分かれているせいか、初めて行く者にはわかりにくかった。
そのうえ、そのあたりの通りは、広くもない道の左右に、特徴のないマンションと、その間に古い個人の家がぽつりぽつり並んでいるという、店舗などほとんどない地味でありふれた道筋で、記憶しにくく、なんどか同じ道に出てはひき返した。
炎天下のせいか、人通りもなく、ようやくゆきあえた年配女性に「この辺りにシェアハウス、ありませんか?」と聞いても
「シェアハウス? そんなのこの近所にあるの?」と聞き返されるしまつ。
写真のコピーを見せると、「こういう感じの建物、なんか見たような気もするけど…」
しばらく考えてくれたものの、
「いやだ! 遅れちゃう!」約束があったらしく急に不機嫌な声を上げると、足早やに去っていった。
その後出あったTシャツにジーパンの40代くらいの男性が「ああ、シェアハウスなら…」と教えてくれたのは、全く異なる駅に近いビルのシェアハウスだった。
これ、シェアハウスなんだ
八幡不動産が家主の秘書と電話で話してくれたとき、その場所に行きつくためにこんなに手こずるなんて、なつみもさくらも予想もしなかった。
〈なんとか女性家主に気に入られて、シェアハウスの住人になること〉
八幡不動産を出たときは、それだけが課題だとふたりはおもっていた。
まさか、そこへ行きつく前に、こんな試練があるなんて…。
リュック型の書類カバンに背広の上着をかかえたサラリーマンらしい若い男が道の向こうに現れたとき、ふたりの焦りは頂点に達しかけていた。
おもわず小走りに近づき、「すみません!」なつみは叫ぶように声をかけていた。
足を止めた男は、ちょっとおどろいた顔で、せっかくの日傘を差しもせず、こわきに抱えた若いふたりの女性を見た。
「あのう、このシェアハウス、ごぞんじないですか?」
なつみは手にした建物の写真のコピーを差しだした。
男はふたりに向けていた視線を手渡されたコピーに移し、すこしのあいだながめると、
「ああ、わかった! これね…」表情をゆるめた。
どうやら知っているらしい。二人はほっとし、なつみはおもわず両手の指を胸の前で組んでいた。
「ふ~ん。これ、シェアハウスなんだ。知らなかった」とつぶやき、
「こっちです」
二人の先に立って大股で歩きだした。
二人が小走りに後を追うと、
「ほら、あそこ。見えるでしょ」
二つほど角を曲がった道の左端に立ちどまって、反対側を指さした。
マンションの左手に、たしかに洋風の建物がひっそりと建っていた。
コピーの写真よりは淡いレンガ色で、そのぶん品よくみえる。
なつみとさくらは、男に礼をいうのもそこそこにその建物に駆けより、低い2段の階段をのぼると、玄関前に並んで立った。
「王子アリス」ホールに、ラベンダーのごく淡い香り…
建物の入り口左手に、40センチ×200センチくらいの横長な深みどり色のプレートに、周囲の縁取りと同じチタンゴールドで、「王子アリス」と文字が浮き上がっている。
「エエッ!〈王子アリス〉って…! 〈王子シェアハウス〉…が、この建物の名じゃなかったの?」なつみはおもわず大きな声を上げた。
「….」
しかし、さくらは、なつみの疑問にはとりあわず、さっさとプレートの下のインターホンを押した。
なつみも、いまはそんな詮索より面接を受けるのが先と気づいて、さくらと並んでインターフォンからの声を待った。
「どちらさまでしょうか?」
ややあって、おちついた40代くらいの女性の声が、インターフォン越しに訊いた。
「あ、あの…。さきほど八幡不動産からご紹介され者ですが、道がとってもわかりにくくて…、道に迷って遅くなってしまって…」
なつみがしどろもどろいうのを最後まで聞かず、女の声は「お待ちしてました」といった。
そして、声と同時に、二人の目の前のこげ茶色の木製の2枚扉が左右に開いた。
「入ってすぐ正面にエレベーターがありますが、それではなく、右手の廊下奥にあるドアの先のエレベーターで、9階に上がってください。エレベーターを出たら、そこでお待ちください」
それだけいうと、インターフォンからの声は止んだ。
なつみとさくらが、クーラーがほどよく効いた玄関ホールに入ると、ドアは、ふたりの背後で静かに閉まった。
ホール全体に、ラベンダーのごく淡い香りがしていた。
二人がギョッとしたのは、入ってすぐ右手が大きな鏡になっていたからだった。
奥行も高さも3メートルくらいの鏡だった。
なつみとさくらは、そこに映った自分たちの、それぞれ左わきに黒い日傘を抱え、髪が乱れた汗だくの姿をみて、あわてて髪をなでつけ、着ているもののしわを伸ばした。
濃緑色の絨毯が敷きこまれた廊下が、玄関ホールから前面と左右に伸びている。靴は脱がなくてよいらしい。
正面に小さなエレベーターがあったが、インターフォンからの声の指示どおり二人は右手奥に進んだ。
10メートルほど先に両開きのドアが見える。ビルでよく見かける壁一面の二枚戸の防火扉だ。
ノブに手をかけると片方の扉がかんたんに開いた。
すぐ先に、女性がいったとおり、エレベーターがあった。
エレベーターが9階につくと、開いた扉の向こうに、薄茶色のパンツスーツ姿の、背の低いこぶとりの女性が、ファイルを片手に抱いて、二人を待っていた。
つづく→ なつみとさくら 月山香子に会う
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