なつみとさくら 月山香子に会う

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なつみとさくら 月山香子に会う

「古沢なつみさんと西東さくらさんね?」

エレベーターの前で待っていた女性は、

手にしているファイルから二人に視線を移して、訊いた。八幡不動産から、ふたりの書類がファックスかメールで送られているのだろう。

インターフォンから聞こえた声と同じだったが、声だけで聴いた印象より若く、30代半ばくらいにみえる。

「はい」「はい」

なつみとさくらが同時にうなずくと、

ファイルを手にした女は「月山の秘書、成海です」と名のり、

「どちらがなつみさん?」

「あ、わたしです」なつみがこたえるとうなずいて、

「じゃ、あなたがさくらさんね」

さくらを見、再びなつみを見ると、

「どうぞ」とかるい会釈で二人をうながし、二人の先に立って濃紺のカーペットが敷かれた廊下を歩いていく。

パンツスーツの足元は、ハイヒールではなく、濃い茶色のローファーだった。

後を追いながら、なつみは意外におもった。
(部屋を借りに来てるわたしたちに秘書がわざわざ名のるなんて…。

えっ! も、もしかしたらわたしたち…。
ドキドキしはじめた胸に、期待のピンクの雲がわきあがりかけた。

(だめだめ、期待してはダメ! これまで、わたしの人生で期待がそのままかなえられたためしなんてなかったでしょッ!)と、もたげかけたピンクの雲を強くうち消し、自分をいましめた。
期待が外れたときの痛さは、数えきれないほど体験しているなつみだった。

だいたい、選んで決めるのは家主で、まだ、家主本人に、会ってもいないのだ。

秘書は、5,6メートルほど先でワインレッドのドアの前に立ち止まり、軽くノックした。
わずかな間をおいて、

「どうぞ」

中から女性の声が答えた。

秘書が大きくドアを押し開けてわきに立ち、二人を促した。

入ってすぐ正面の、小花もようが一面に彫り込まれた透明アクリルのパーティションを回り込むと、横長なソファが向き合っておかれ、間に、明るい色の木製の細長いテーブルが見える。

向こう正面のソファに、猫を抱いた60歳前後のほっそりした小柄な女性が腰かけていた。

なつみとさくらを見て、猫を抱いたまま立ち上がり、笑顔で、二人に自分と向かい合ったソファをすすめると、自分ももとどおり座った。

家主の月山香子にちがいない。

なつみは、ちょっと意外だった。
美人でやさしそうなおばさんだとはおもった。しかし、ごく普通のおばさんだった。

勤めている店に来る女客の中には、見るからにやり手に見える金持ちもいる。
そういう、女性にくらべれば、ごくふつうの、お金に困らない家庭の主婦という印象だった。

抱かれている白黒ぶちの猫は、街中の路地のどこでも見かけそうな日本猫に見えた、

しかし、飼い主は大金持ちなのだ。(実は、血統書付きの高額な猫なのかもしれない)と、ソファに浅く腰かけながらなつみは思った。

秘書がトレイに乗せたグラスを運んできてそれぞれのテーブルの前に配り終えると、すこし離れた場所に立った。

「どうぞ」月山は、猫をソファの自分のすぐ脇におろすと自分のグラスを取り上げ、二人にも勧めた。

たっぷり氷の入った香ばしい麦茶は、炎天下を歩いてきた二人ののどをこころよくうるおすはずだったが、緊張しているせいか、ふたりとも麦茶がのどを通らなかった。一口だけ飲んで、それぞれテーブルにそっとグラスをもどした。

「おふたりは、どんなおともだちなの?」

なつみとさくらは、互いのことばを補いながら、

小学生のころからの幼馴染であること、中学校で同じクラスになったのがきっかけで親しくなったことなどをはなした。

月山は、グラスを手に、ふたりをながめながら黙って話を聞いていた。

二人が話し終えてから、しばらく間があった。

ふたりは、息をこらして月山のことばを待った。

やがて月山は、おだやかな声で、秘書の成海にいった。
「成海さん。おふたりに、お部屋をご案内して」

「はい」成海は月山に答え、茫然としているさくらとなつみにむかって、

「おふたりとも、のどがかわいているはずよ。麦茶、飲んじゃってね」と、うながした。

なつみとさくらは、おもいがけない幸運に呆然としながら、ぴったり閉じたようになっている自分ののどをむりやりこじ開けるようにして、やっとのこと冷たい麦茶をのどに流し込んだ。

ふたりがなんとか飲み終えると、
成海はコップを盆にのせ隣の部屋(秘書室だろうか)に下げてもどると、先に立って廊下へ出た。

成海にうながされてエレベーターに乗り込み、ドアが閉まってエレベーターが下り始めると、成海がふたりにむかっていった。

「お二人、ラッキーだわ」

「はい、わたしたちもそう思います」なつみが興奮を抑えた声で応じ、さくらもおおきくうなずいた。

すると、成海はにっこりし、

「たぶん、あなたたちがかんがえてるより、ずっとラッキーなのよ」
といった。

〈ずっとラッキー〉って、どういうことなんだろうと、ごく普通の女性に見えた月山香子をおもい返しながら
「…そうなんですか」なつみが答えたとき、エレベーターが1階に着いた。

つづく→

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