子犬のワルツ 父の家
翌朝、目ざめると、窓がやけに明るかった。
時計を見ると8時を回っていて、なつみはとび起きた。
父の家は住所からたしかめると、毘沙門天の裏手エリアにあるようだった。
神楽坂毘沙門天の最寄り駅は「都営地下鉄神楽坂」だが、
すこし遠いだけで「東京メトロ飯田橋」からもいけるらしい。
調べると交通費にだいぶ差があり、都営は高かった。
なので、なつみは飯田橋から行くことに決めていた。
着ていく服選びには、いつもより時間がかかった。
外出に着ていける服はそんなにあるわけではないから、すぐ決まりそうなものだったが…。
結局、比較的新しい白地に黒い水玉模様のTシャツ
(おきにいりなので、あまり着ないようにしている一枚だ)と、
ひざ下で切ったはきなれたジーパンにした。
それから、薄茶のビニールレザーの小型のショルダーバッグの中身をたしかめた。
テイッシュ、タオルハンカチ、財布の中にはわずかな小遣いから貯めておいた2000円あまり…。
小4のときからつかっているピンクの水筒に、冷蔵庫から出した麦茶を詰めた。
父の家は住所からたしかめると、毘沙門天の裏手エリアにあるらしい。
神楽坂毘沙門天の最寄り駅は「都営地下鉄神楽坂」だが、
すこし遠いだけで「東京メトロ飯田橋」からもいけるらしい。
調べると交通費にだいぶ差があり、都営は高かった。
なので、なつみは飯田橋から行くことに決めた。
飯田橋の神楽坂方面への出口に続く、古びた東京メトロの階段を上りつめて外へ出ると、
すぐ目の前が坂で、右手にむかって上り坂になっていた。
左手は、坂を下った先に、ちょっと広い交差点へつづいているのが見える。
神楽坂の道幅は、想像していたほど広くなかった。
車道は車がやっとゆきちがえるていどで、
その左右に、二人がなんとか並んで歩けるくらいの古びた石畳の歩道がついている。
左右に並ぶ店も、派手さはない。
有名な神楽坂だが、案外地味な印象で、なつみは意外に感じた。
そのうえ、人通りも少ない。
10時すぎという、昼には間がある時間のせいだろうか。
なつみのすぐあとから階段を上ってきた30代くらいの女性に毘沙門天への道を聞くと、坂を上っていけば数分で左手に見えるという。
「みずほ銀行のATMのちょっと先。派手な朱色のお寺さんだから、すぐわかるわ」
なつみは、先を急ぐらしい女の背にむかって礼をいい、女の後から上り坂を歩きはじめた。
毘沙門天
坂はゆるやかだった。
すこしゆくと、女性が教えてくれたとおり、
銀行があり、すぐ先に派手な朱塗りの建物の見える場所へ出た。
毘沙門天らしい。
おもったより小さかったが、
濃い朱色でいろどられたさまは、たしかに目立った。
この後ろにあたる地域に、父の家があるのだ。
そう思うと、なつみは、ふいに、緊張で胸が痛くなった。
ここまでくれば、父の家まではほんの目と鼻の先にちがいない…。
なつみは、毘沙門天を左に見てとおりすぎ、
すこし先で毘沙門天の背後のエリアに通じるとおもえる角を左へ曲がった。
この道もまた広くはなかったが、歩いていくと、再開発が進んでいるエリアらしく、
真新しいマンションのすぐとなりに、古い木造住宅が並んでいたりする。
ちょっと見には、なつみの住む下町の光景とそれほど違わないように思えたが、
よくみると、一軒一軒の個人の家が、古びてはいても、
手入れのいい裕福なたたずまいだったり、敷地に余裕があるようだ。
そして、普通の住居らしい家の間に、思いがけず、粋な感じの飲食店が、さりげなくひっそりとのれんをだしていたりする。
すぐ見つかるだろうと思った父の家は、なかなか見つからなかった。
なつみは、図書館でコピーした地図をたよりに、
家々の表札をたしかめながら、なんども同じ道を行きつもどりつした。
11時を回ると、気温が急に高くなった。
なつみは水筒のキャップをあけて麦茶を飲んだ。
水筒は魔法瓶になっていて、麦茶はまだ十分冷たかった。
冷たい麦茶がのどから食道、胃と、こころよく冷やしながら下りていく。
体の内部から冷えたせいか、さっきまでの疲れがすこしおさまり、
ほっとしてねじ込みになっているふたを閉めながら、なつみはまわりを見わたした。
ふと目を止めたのは、ふたつの家の左右の敷地からの生垣に、
なかば隠れるようにして細くのびる小道だった。
ふいに、頭上から声が…
左手の家の紅白2樹の百日紅(さるすべり)が満開で、
その小道にこぼれた花びらが濃いピンクと白のあざやかなじゅうたんもようを織りだしていた。
そのうつくしさにひかれ、なつみは百日紅の咲いている家に歩みよった。
近くで見ると鉄柵の塀の右手奥には、黄色とピンクのつるばらも、
何輪か、ひっそりと咲いていた。
どの花も、手入れがいいのか、この暑さにもめげずみずみずしい花色を見せている。
なにげなく、左手に見える門前に行き、
樹木の枝ですこし陰になっている小ぶりな表札に気づいたなつみは、
次の瞬間、打たれたようにその場に立ちつくした。
白い陶製の表札に、黒で「鈴代」と焼き付けられている。
なつみは、まるで、その文字の意味がわからない者のように、その文字を、
しばらく見つめていた。
ふいに、頭上から声がした。
見上げると、
二階のベランダのわずかに開いたガラス戸の向こうのレースのカーテンごしに、人の気配がし、
年配の男女の声に、なつみと同じ年ごろの若々しい女性の声がまじった。
ことばの内容はわからなかったが、仲むつまじい会話なのはわかった。
なつみは、身動きできず、じっと息を凝らして、耳を澄ました。
会話が消え、ふいに、ピアノを弾く音がながれた。
軽やかで、楽しいリズム。
生命力にあふれた小さな生き物、
ふわふわとしたむくげの小犬が無邪気に駆け回る愛らしいようすが目に浮かぶ旋律……。
ショパンの「小犬のワルツ」だった。
なつみは、その場に凍りついた。
その曲は、なつみの胸に冷たい杭をうちこむような痛みをあたえたのだった。
「小犬のワルツ」は、クラシックなど無縁の貧しい家庭で育ったなつみが、
その旋律を知っている、数少ないクラシックの曲名だった。
同時にそれは、聴くたびに、屈辱の記憶をなつみに思い起こさせる曲でもあった。
小犬のワルツ
6年生だったあの日…。
体育館はごったがえしていた。
バスケット部の部員が数人、片隅のゴールボードの周りでいつもどおり練習していたが、
そのほかは、体育とは無縁のにぎわいだった。
劇やダンス、日舞や鳴り物、ピアノにギターと、それぞれの出し物の練習に夢中になっていて、
入り混じる楽器の音や、それに負けじと、あるいは高揚してあげる大声が満ち、広い体育館も狭く感じられるほどだった.
かれらの心には、強弱はあっても、選ばれた存在としてここにいることへの、高揚感があった。
その高揚感のるつぼの中に、なつみもいた。
おさななじみ
担当教師のもと、だしものの稽古を終え、
主役の立野みどりやその他役の島野あきこといっしょに、
なつみも体育館の出口へ向かいかけたとき、
みどりが声を上げた、
「あ、けいちゃん!」
一隅にピアノが置かれ、そこに数人の男子生徒がたむろしていた。
ピアノの前に座っていた男子が、みどりに向かって笑顔で片手をあげた。
なつみは、ドキリとして息をのみ、全身が熱くなった。
中津圭太だった。
中津圭太は、男子生徒にも人気があったが、
4年生以上の女生徒なら、その名を知らないものがないくらい人気のある男子だった。
成績はつねにトップクラス。
5年になるとき受験勉強開始のために辞めたというサッカー部でも、
動きが速く正確なボールさばきで目立つ存在で、
そのうえ、タレントにスカウトされてもふしぎはない容姿に恵まれていた。
父親は上場会社の取り締まりをしているという。
〈上場会社〉が、なんなのか、当時のなつみはよくわからなかったが、
大きな会社らしいとだけはわかった。
「圭ちゃん、なに弾くの?」
親しげにかけたみどりの問いに、圭太は、まじめな顔をみどりにむけたまま、
ピアノの鍵盤の上でなめらかに指をすべらせ、
軽やかな旋律をすこしだけ弾いて見せた。
「あ、小犬のワルツ! ショパンね」
みどりがいい、圭太はくちもとに笑みを浮かべた。
なつみは、その音色以上に、圭太のすでに男らしいしっかりした成長をみせている指先が、
ピアノの鍵盤のうえをかろやかに滑る様に魅せられ、こころをうばわれていた。
そして、この場に自分がいることの幸運に、舞い上がっていた。
しかし、
その幸福感は、長くは続かなかった。
「圭ちゃん、もう学校、絞ったの?」
あきこが親しさに慣れた声で聞いた。
受験予定の中学のはなしらしいとは、かかわりのないなつみにもわかった。
みどりもあきこも圭太と同じ高額な塾に通い、私立中学を目指していることは、
別世界のはなしとして、なつみもうわさで知っていた。
「ああ、決めたよ」
「どこ?」
みどりが聞くと、圭太は、真顔の視線をあきこからみどりに移し、ふたたびあきこにもどした。
なつみは、みどりとあきこの間に立っていた。
だが、圭太の視線は、
みどりとあきこのあいだのなつみの存在など、まるでそこに居ないもののように素通りし、
三人の会話の間中、みどりと明子の顔を往復しながら、
なつみには一瞬も視線を止めなかった。
まるで、そこになつみが存在しないもののように…。
なつみは、いったい自分がどんな顔をすればよいのかとまどって、
ただ口元に笑みをたやさないように努めていた。
三人が自分の存在を忘れたみたいにはなしているけれど、
自分はなにも気にしてなんかいません、とかれらに伝えるためみたいに。
圭太、みどり、あきこの三人は、いずれも裕福な家計の家に生まれ、
同じ私立幼稚園からこの小学校に上がった幼ななじみだった。
保育園さえ満足に通えなかったなつみとは別世界で育った三人が、
なつみに話題を振ることはなかった。
三人の間に、なつみの知らない事柄についてのやり取りがしばらく交わされ、
「じゃあね」とようやくみどりが圭太に小さく手を振って歩き出すと、
いままで人質のようになつみを間にして三人で並んでいたみどりとあきこは、
なつみを後にのこし、ふたり寄り添って自分たちの会話を続けながら出口へ向かい、
なつみはそのあとをついていく形になった。
体育館の外階段を下り切ったところで、みどりが、ひとり遅れたなつみをふりかえり、
「じゃあ、またね」
明るい笑顔を向けた。
なつみは小さく手を上げてこたえたが、
そのとき、みどりと並んだあきこが口元に浮かべた薄い笑みが見えた。
なつみは、準主役という役を与えられ、高揚していた自分のこころに、
冷たい水を浴びたような気がした。
なぜ、バカのように、みどりとあきこの間に立ち続けたのか…。
答えはわかっていた。
圭太に、すこしでも自分の存在を認めてほしかったのだ。
いまではなつみにもわかっていた。
心が一つだったのは、みどりとあきこだけでなく、圭太も同じだったのだと。
中津圭太が練習を始めた小犬のワルツの目まぐるしい曲のピアノの音が、
あざわらうようになつみの背後から追ってきた。
震えそうな脚を踏みしめて、コンクリートの階段をひとり下りながら、
いますぐ、このまま、この世界から消え去ることができたら、どんなにいいだろう、となつみは思った。
いらい、あの日のことは思い出さないことに決め、
小学校卒業後、彼らに会うこともない年月の中で、ほとんど、忘れていたのだった。
そしてまた 子犬のワルツ
しかし、いま、自分を拒絶したと聞かされた実父の家を探しあて、
この窓の下にこっそりと隠れるように立っている自分の耳に届けられているこの曲。
同じ父の子としてほぼ同じころに生まれながら、
ひとりは裕福な環境に育ち、一方、自分は存在さえ拒絶されたという悲しみと屈辱。
そんななつみの耳に流し込まれたこの曲は、
自分のみすぼらしさをこれでもかと、なつみにおもい知らせるのに、
なんとうってつけの曲だったろう…。
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