部屋探し
本郷通りのアスファルトの路上に、かげろうが揺れている。
5月下旬のその日。数日前から、30度をこえる暑い日がつづいていた。
5月といえば、さわやかなみどりの風がそよ吹くはずなのに、日ざしは、
まるで、出番をまちがえて出てきた8月はじめの太陽みたいだった。
そんな、頭上から、ようしゃなく照りつける真夏みたいな日ざしの下を、
古沢なつみと西東さくらは、それぞれすこしデザインのちがう黒いレースの日傘を並べて、
駒込から本郷通りを王子方面に向かって歩いていた。
ともに20歳だが、
7月がくれば、なつみは3月生まれのさくらより一足先に21歳になる。
田端からつづく道とぶつかる歩道橋をまたぐ三叉路を、道なりに左手に曲がると、
ヨーロッパの古い邸宅の敷地入り口にあるような鋳鉄製にみえる門扉の前に出た。
バラと洋館で知られる旧古河庭園の入り口だ。
歳月を経た門扉のむこうを透かし見て、なつみは、
小学生のとき、遠足でこの庭園にきたことを、すこしなつかしくおもいだしていた。
あのときより門扉が低くみえるのは、こちらの身長が伸びたせいだろう。
(中は、あのときと変わりないのだろうか…)
ひとりでは遠出のできなかった小学生だったあのころ、
遠足は、なつみにとって数少ない大きなイベントのひとつだった。
あの日見た瀟洒なばらの庭は、この暑さでも、さまざまな色の美しいたくさんのばらを咲かせているのだろうか。
小学3年生だった。
さくらと、いまみたいに親しくなるとは思いもしなかったころだ。
4年生になってクラスがいっしょになるまでは、ことばを交わしたこともなく、
同じ学校の同じ学年らしい、くらいしか知らなかった。
それがいまでは、同じ部屋に住み、同じ職場に通うようになっている。そしていま、引っ越し先を、こうしていっしょに探しているのだ。
駒込の途中から歩道の道路側には、花の植え込みがつづいていた。
個人が思い思いに勝手に植え、丹精しているような花のようだったが、
古川庭園の前だけは専門の業者が選んで植えたらしく、季節の花が整然と並んで咲いている。
古川庭園前をすぎると、本郷通りのむこう側に小さな神社らしいものが見え、
神社の横に古びた素朴なたたずまいのちいさな和菓子屋が見える。
通りはかなり先まで見通せるけれど、左右に不動産屋は、なさそうだった。
お気に入りのレモンイエローのTシャツは、汗でぐっしょり濡れて背中にはりつき、
かかとが高めのサンダル履きの足はむくんで、ベルトが食いこみ、痛い。
ペットボトルのお茶も残り少なになり、おなかもすいてきた。
なつみは、背負った小さなリュックのわきポケットからスマホをとりだして時間を見た。
あと10分ほどで正午だった。
最初に東大前の不動産屋の前に張り出された空き部屋案内を覗いたのが10時過ぎ。
それから駒込まで、しらみつぶしに不動産屋をぞきながら歩いてきた。
そしていま、なつみの手にした東京都の地図では、どうやら地下鉄西ケ原駅の近くに
きているらしい。
おなかすかない?
すこし遅れたさくらをふりかえって、なつみがそう声をかけようとしたとき、さくらが先に声を上げた。
「ア! 不動産屋…」
「エ、 どこ?」
「ほら、あそこ」
なつみは、さくらが指さす先をみた。
よくみると、さくらのいうとおり、たしかに、手前のマンションに隠れるようにして、なつみが気づかず通り過ぎたが、不動産屋らしい小さめの看板が見えた。
マンションに向かって右手の道はゆるい上り坂で、すぐ先で曲がっていたので、なつみは見落としたらしい。
「八幡不動産」
ふたりは、通りから入る3メートルほどの道はばの細い坂道をのぼり、不動産屋の前に立った。
不動産屋の前の引き戸には、上部の透明のガラス中央部分に、白い文字で「八幡不動産」と書かれている。
むかしからほそぼそとやっている店らしいたたずまいだった。
だが、建物は古く安普請だが、古びたガラス戸のさんなども掃除がいきとどいていて、こざっぱりとしてみえる。
拭き清めた前面ガラス戸には、たいていの不動産屋同様、不動産情報の紙がところ狭しと貼り出されている。
だが、ほかの不動産屋同様、こぎれいなマンションの部屋の情報が大半で、二人が探しているような安アパートは、ほとんどない。
貼り出された不動産情報をなつみとさくらは、すばやく見ていった。
これまでの店と重複している物件が多かったから、時間はかからなかった。
予想どおり、変わり映えしない情報ばかりだった。
わずかな期待でちょっとのあいだ忘れかけた暑さが、さっきよりひどく感じられた。
どだい、このご時世に
二人が退去を迫られているような安アパートなんて、めったにあるもんじゃないのだ。
この店をさっさときりあげて、昼食休憩を提案しようとさくらを見た。
本郷から南北線の駅に沿って下ってきた。ここまでくれば、相場がさがるのではないかと期待していたが、どうやら甘かったようだ。
東京都を出て埼玉県にはいれば、部屋代はすこし安くなるかもしれないが、二人の勤務先は飯田橋から徒歩7、8分の場所にあるすこし歴史のある和食店で、交通費が一定額までしか出ない。
早出と遅出の日があるので、あまり遠くには住みたくなかった。
それに、若い二人としては、できれば東京都内に住みたいという思いもあった。
なんといっても、〈世界の魔都・東京…〉なのだ。
TOKYOといってわかる外人は多いが、SAITAMAといってわかる外人はすくない。
何年か前に、埼玉にムーミンのテーマパーク「ムーミンバレーパーク」ができたから、もしかしたらフィンランド人の間では、SAITAMAも知られているかもしれないが…。
ふたりが貼り出された情報を見ているガラス戸の向こうに人影が立った。
30センチほどガラス戸が引きあけられて、老いた男の渋紙色の顔がのぞき、二人に声をかけた。
「よかったら、中にもとっておきのお部屋がありますよ」
ふたりを脅かさないようにかすかな笑みをつくっている。
70代?いや、80代だろうか。90代にはなっていないだろうけど・・・。
正直、若い二人には、60歳以上の老人の年齢はよくわからない。
しかも、コロナはとっくに5類に移行したのに、この暑さに律儀に白いマスクをしているので、
顔の下半分が隠れているのだ。
老人はたいてい小柄だが、それにしても小さな老人だった。
165センチのさくらはもちろん、159.5センチと、21歳の今日まで、ついに160センチになれなかったのが心残りのなつみから見ても、ひどく小さい。
もしかしたら150センチもないのではないか。
しかし、その目には、老人とは思えない、この業界で生き抜いてきた者らしい、衰えを知らないぬけめのなさがあった。
不動産屋を、この年で、どうやら一人で切り盛りしてるらしいのだから、当然かもしれない。
リタイアしてのんびり老後をたのしんでるような、ご老体ではないのだ。
150センチないかもしれない小柄な(というか、ちっちゃい)老人ひとり対160センチ前後の女ふたり。
いざとなれば役に立ちそうな、たたんだ日傘だって持ってる。
危険はなさそうだ。
「とっておきの部屋」なんていっても、かわりばえしない条件にちがいないとおもいつつ、
それでも、たとえいちるの可能性であっても、たしかめたかった。
ふたりは顔をみあわせ小さくうなずいて、中に入ることにした。
老人が大きく開けた引き戸から店に入ると、かすかに、たばこの匂いがした。
老不動産屋は、あいそよく、ふたりに、こげ茶色のビニールレザーのソファをすすめた。ソファの前には透明のガラスのテーブルがセットになっている。
この応接セットをはじめ、店内全体が、古い映画で見る昭和の不動産屋みたいだった。
かたわらの、これも古いスチール机の上の、ガラス製の灰皿をさりげなく、すぐ横の棚にどけると、
老人はフチなしの老眼鏡をかけ、分厚いファイルをとりだした。
フチなし眼鏡をかけると、老人はちょっぴり品の良い印象になった。
ふたりから予算と希望の広さを聞き取ると、
手にしたファイルから、写真と見取り図のついた部屋の情報をていねいに、しかし、慣れた手つきですばやく選び出し、
二人の前のガラステーブルに並べていく。
たしかに、表に張り出してある情報よりは安いものもある。
それでも二人が二年前に破格の賃料で借りた本郷のアパートは、
昭和30年代に建てられた築70年にちかい木造アパートで、
もともと2年後にはでるという約束で借りたものだった。
、ふたりの予算をだいぶ超えている部屋ばかりなのに変わりはなかった。
いま二人が住んでいる部屋は本郷の路地裏にあり、60年も前に学生や独身者用にたてられた、
風呂の無い、4畳半、トイレ共用の古いアパートだった。とはいえ、賃貸料は1万円にも満たない破格だった。
借りたとき、
1年か、数年先か決まっていないが、近い将来建て替えが予定されているので、建て替えが決まったら、
その時は立ち退くという条件付きだったので安かったのだ。
建て替えが決まり、その期限が9月に迫っていた。
「駅からすこし遠くても、建物が古くたっていいんです」
なつみがいい、さくらもうなずく。
「そう…」
不動産屋は、しわに埋もれそうな目をいっそう細め、思案のいろをみせながら二人をじろじろと見ている。
ふたりが、老不動産屋の視線をいごこちわるく感じはじめたとき、ようやく視線をはずし、
「もしかしたら、おたくらなら…お眼鏡にかなうかもしれん」
ぶつぶつと意味不明のひとりごとをいいながら、こんどはごく薄いファイルを取り出した。
ファイルには3枚の書類がつづられていて、最初の一枚は外観とその内部の写真らしかった。
タイトルに「王子シェアハウス」とある。
(シェアハウス!)
シェアハウスだったら安いかも…、ふたりは真剣な目になってのぞきこんだが、ページをめくって、
二人の目から同時に期待の光が消えた。
(こんなの、わたしたちにはとうてい無理…)二人はがっかりしたが、視線はくぎ付けのままだった。
洋風のきれいな建物で、内装も、各部屋がホテルのように整っている。
それでいて、ホテルのようなとりすました色でなく、淡いピンクやクリーム色、淡いパープルなど、
各部屋やわらかな色で統一され、しかもその広さはそれぞれ45平米と広い。
そのうえ、各部屋シャワーとトイレ付きにくわえ、
浴槽つきの浴室が、共用で、別に設けられている。写真ではどうやらジャグジーがついているようだ。
これじゃ、いくらシェアハウスだって、相当高い賃料にちがいない。
この不動産屋は、いったいどんなつもりでこんな物件をわたしたちふたりに見せたんだろう、
といぶかりながらも、ふたりは視線が離せず、ファイルをめくった。
5部屋のうち埋まっているのは二部屋で「居住中」のシールが貼ってある。
ふたりの視線はその部屋代まできて、釘付けになった。
「うそッ」 なつみは、おもわず悲鳴のような声を上げていた。
さくらも、息をのんでいる。
信じられなかった。
0(ゼロ)を見落としているのではないかと見直したが、まちがいなかった。
その額は、ふたりにだって十分払える額だった。
それどころか、本郷でいま借りている木賃宿みたいな狭い部屋に支払ってる額より安いのだ。
きっと数字の打ちまちがいにちがいない。でも…
ふたりはこわばった顔を見合わせてから、不動産屋を見た。
「これって、ほんとにこのお部屋代で借りられるんですか?」
なつみが、疑わしそうな声で不動産屋に聞いた。
まるで、不当な仕打ちをうけたときみたいな詰問の声になっている。
なにか詐欺的な背景があるのかもしれないと考えたのだ。
若い女の子二人とみて、理由はわからないけれど、だまそうとしているのではないか。
すると老不動産屋は、なつみの疑いを、まるでほめられたと勘ちがいしたみたいに、見える部分の顔のしわを、くしゃりと一層深くして、うれしそうに「ほっ、ほっ、ほっ」と笑った。
「そう、ほんと。その金額なの、…ほんとなんですけどね…」
不動産屋は真顔にもどると、腕を組み、首をかしげながら片手でマスクの下の貧相なあご先をつまんだ。
「ですけどね…」のあとのことばをふたりは息をのんで待った。
いったいなにが、「ですけどね…」なのか。
(ばかね。夢みたいな話なんて、やっぱりあるはずないのよ)ぬか喜びした分だけいっそうみじめになりそうで、なつみはこころのなかで自分を叱った。
「まあ、入れるかどうかは、家主の判断次第ってことなの」
老人は、ようやくいった。
「家主さんの判断次第って・・・、どういうことですか?」
さくらがかすれた声でおもわず詰問するように訊き、なつみも大きくうなずいた。
「つまりね、家主の気に入らない相手には貸さないってことなの」
不動産屋のはなし
不動産屋のはなしでは、
王子のシェアハウスの家主・月山香子(つきやまかおるこ)は、亡夫の遺産で莫大な資産を受けつぎ、
シェアハウスの近くに9階建てのマンション一棟を持ち、その最上階に住んでいるのだという。
この王子のシェアハウスは、なかば道楽、なかば人助けで建てたのだという。
「人助け…」
「まあ、あなた方が、お眼鏡にかなって、シェアハウスに入れたらわかりますよ」
と不動産屋はいった。
そして、二人をがっかりさせるようなことばを、さいごにぽつんと言った。
「これまでだいぶ紹介したんだが、みんな断られてね」
「みんな? でも、二部屋埋まってますよね」
「そのお二人は…」
いいよどみ、
「それはね、月山さんのボランティア、人助けなの」といった。
「……」
どうしてそれがボランティアなのか聞きかけるふたりを手でとめて、
「いま行って大丈夫か、連絡するからね」と、スマホを手にした。
しばらくスマホでやり取りをして、
「いいそうですよ」
ふたりにむかっていい、ファイルのコピーと、月山という家主の住所と電話のメモを渡しながら、
「まあ、足代はもらえるから。ダメもとだとおもって…」と、
すこし慰めるようにことばをつけくわえた。
八幡不動産のある道から本郷通りへ出たところで、ふたりは足を止め、頭を寄せて、
あらためてじっくりコピーを見た。
すこしピンぼけのカラーコピーだが、見れば見るほどすてきなシェアハウスだった。
こんなシェアハウスに、もし住めるとしたら…。
なつみとさくらの脳裏に、ここに住んでいる自分たちのすがたが思い浮かび、
(どうしたって、ここに入りたい…)
ふたりは焦燥に似た強いおもいにとらわれて、たがいの顔をみた。
すぐにスイッチが入ったように、ふたりは、王子へ向かって歩きだした。
コメント