眠れぬ夜
これから図書館に行くというなつみに、
「なにかあったら電話しなさいね」
といって、恵子はなつみに背を向けた。
ぽっちゃりと肉付きのいい背を見せ、しっかりした足取りで去っていく伯母をすこしの間見送ってから、なつみは図書館に向かった。
(クーラー代がかさむから、できるだけ図書館に行って)
出かける前に母からそういわれていた。
だが、いわれるまでもなく、なつみは、あの狭くるしい家にひとりでいたくなかった。
ひとりになればすこしは広く感じるかと思った家は、やっぱり狭かったし、
おまけに、思いがけず、狭いなりにがらんとした家は、一人ぽっちという思いをきわだたせ、きみょうにひやりとした孤独感をなつみの胸にじわりとひろげ、いたたまらなくさせた。
そういうわけで、ひとりでいる家がひどく居心地悪いのを、今朝、体験済みだったのだ。
なつみは、閉館ちかくまで図書館で過ごした。
___________🌸_____________
その夜、図書館から借りてきた数冊の本を枕もとに積んで、クーラーをつけたまま、床に就いた。
だが、気に入って借りてきたはずなのに、どの本を開いても、その世界に入っていけなかった。
いつもなら、どの本だって、最初の一行からそのストーリーにはいれるはずのお気に入りの作家の本や、開く前からワクワクするような図鑑だというのに…。
なつみは、とうとう本を閉じて、胸の上で手を組んだ。
すると、
(どんな…、人間なんだろう……。すずしろけいじという人は)というかんがえが、かってに浮かんだ。
会うことのなかった、(捨てた子である…)わたしについて、ときにはかんがえることがあるのだろうか?
そう考えてなつみは、弱い電気にでもふれたように身震いした。
ばかね、…期待するなんて.
そんなことあるはずないのはわかってるのに…。
生まれてくるわたしを、見ることさえ拒んだというのだ。
わたしを自分の子として一目会うことさえ、拒絶した〈人〉。
生まれても、知らせるなといった〈人〉。
〈父〉にとってわたしは、〈生まれるのが迷惑な存在〉でしかなかったのだ。
〈会わない〉という保証を、(金を渡して)母から買いとるほどに…。
なつみは、その事実におもいいたると、屈辱のするどい痛みとともに、心臓に氷をあてられたような、たえがたい不快な冷たさに身がふるえ、涙があふれた。
あふれた涙は、おえつになり、号泣になった。
うすい夏蒲団の上で、なつみは、長い時間、おさない子どものころのように泣くことに身をまかせた。
一人きりの自由を、あらためて感じながら、心ゆくまで泣いた。
やがて泣き止んで、
それでもなお…、見たいと思った。
〈自分の父〉を…。
自分でも信じられないほど強く、激しく。
自分という人間の半分は、その男の遺伝子でできているのだ。
そう考えると、どんな人間なのかたしかめたいという思い、(たぶん好奇心だろうと思いたかった)…が、なつみのなかで止めようもなくふくらみ、大きくなった。
自分の〈父〉は、どんな顔をしているのか?
どんな声なのか?
…………。
〈自分の遺伝子の半分をたしかめたい!!〉
自分でも思いがけない激しさで、なつみはそう思った。
愛情なんていらない。ただ遺伝子をたしかめたい…。それだけ。
布団から起き上がると、なつみはショルダーバッグから図書館で調べた〈父〉の住所の区画の地図のコピーをとりだした。
夏の短い夜が白みかけるころ、手にした地図のコピーが枕の横に落ち、ようやくなつみは浅い眠りに落ちた。
眠りに落ちる直前、こころに決めていた。
(明日は、〈父〉の家の前まで、行ってみよう…)
叔母にいわれるまでもなく、〈自分が生まれてほしくなかった〈人〉に会うつもりなど、なかった。
だが、自分のからだの半分の要素をもった存在が住む場所だけは、自分の目で、たしかめたかった。
そして、たしかめるチャンスは、明日をのがせば、つぎにいつやってくるかわからなかった。
家族が全員留守のこんな機会は、めったにないのだから…。
コメント